情報公開された公文書の山とそのほか資料の山に埋もれて過ごす日々は、当たり前のことを再確認する日々であります。ちゃんと文章化するのには時間が足りないけど、このままだと頭の中からどんどんどこかに飛んで行ってしまいそうなので、備忘録代わりにメモ。

 原発事故とその後の対応や、原発の再稼働をめぐる様々な動きの中で、またもや「安全」や「安心」、あるいは「安全・安心」、「不安解消」という言葉が当たり前のように跋扈するようになってきました。もとい、原発事故直後からこれらの言葉は使われてきているので、使われなくなったという状況は一度もないと思いますが…

 原発に限らず何事もそうですが、「安全・安心」=「ゼロリスク」ではないという当たり前のことが、どうもいろんな議論から零れ落ちているようです。そのことは、情報公開の質にも大いに影響しているのではないかと考えています。

 原発立地を支えた「安全神話」が典型ですが、「安全・安心」や「不安解消」のためには、安全であることや安心できること、不安の解消につながる情報を提供してその状態を作り出すことに情報が利用されます。こういう場面で公開される情報は、とかく、情報操作されている、コントロールされた選択された情報であることを肝に銘じるべきです。安全・安心や不安解消を目的とした情報提供や情報公開をすると、一定の不信感や不安を持ってそれに反発する層と、そうはいっても自分の手の範囲を超えている問題であればそれを信じるしかないという層に分断される。お互いに、不信感や情報への依存が自分自身の判断を成立させているので、両者がまじりあうことはなかなか難しい。いきおい、あえて判断のわかれる問題には触れずに人間関係を成立させるか、多数派となった方が少数派を沈黙させるという構図が生まれ、いずれにしても、情報を操作的に提供してきた側(原発問題で言えば、政府、自治体、電力会社などでしょうか)の思う方向に物事が動いていくことになる。

 「安全・安心」「不安解消」は「ゼロリスク」ではないことを前提に考えれば、こんな状況が生まれていること自体が、非民主的であると思うわけです。おそらく、政府なども「ゼロリスク」であることを保証しろと言われれば、それを「保証する」とは言えないのではないか。それを言ったとすると、相当なお馬鹿さんに私なんぞからは見えてしまします。原発だけでなく、政府や自治体が政策を決めるときはそれは選択の結果です。何事もいろんな選択肢があって、例えば経済政策も「アベノミクス」がいろいろ議論されていますが、その方向を選択することで得られること、あきらめること、排除されることは当然あるわけです。それでもなお選択するのは、リスクがゼロだからではなく、リスクを上回る公共的利益があると政府が判断したということであります。

 こういう当たり前の前提に立つと、本来の情報公開は物事の選択に伴う「リスク」を示し、その上で一定の犠牲を払ってもその選択をするということを考えるためのものであるべきだと思うわけです。「安全・安心」「不安解消」と同列の、この選択肢を取るとこんなにいいことがありますよ、ということを一生懸命説明するような情報公開は、それもコントロールされた情報です。これはある種の逃げであり、問題と正面から向き合っていないからこそのものでしょう。

 というわけで、「安全・安心」「不安解消」などの主観的な感情操作のための情報の提供ではなく、本来の情報公開はどういうものであるべきなのか、ということは、まじめに考えていかなければならないと、当たり前すぎることを半分反省の意味も込めて肝に銘じるのであります。
 
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by clearinghouse | 2013-02-18 22:40