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手続とプロセス―民主主義の中身

 安保関連法案が衆議院の委員会で採決されたが、国会周辺には多くの人が押し寄せている。私は、仕事で動けずかごの鳥状態。久ぶりに、まとまった時間を事務所にこもって作業している。だから、この間、国会周辺にはほとんどよりつけていない。

 特定秘密保護法の時もそうだったし、安保関連法案はなおさらだけど、憲法や民主主義がこれほど語られるようになった。ここで語られている憲法や民主主義とは一体何か、がとてもこれから重要になってくると思う。

 情報公開制度にかかわるようになってから、そんなに経たずに気付いたことがある。それは、民主主義には手続とプロセスが混在しているということと、だけど情報公開制度は手続とプロセスが、請求を受ける側と請求をする側を決定的にわけている視点の違いであるということだ。

 情報公開制度を使っていると、請求を受ける側は「請求を受け付けて処理をする」という手続としてそれを処理する。制度の作り方も、請求理由も請求者も関係なく、公開化非公開化を判断する仕組みであるので、手続として粛々として処理されることになる。もちろん、情報公開法や情報公開条例の目的規定にはそれなりに立派なことが書いてあったりするが、それよりも法技術的に出せるか出せないか、解釈的にどうかという狭い視野の議論で物事が論じられることも多い。

 しかし、制度を使う方は少し違う視点でいる。それは、問題や課題に取り組む、あるいは追求するプロセスの一環として情報公開請求をしているということだ。だから、情報公開請求は単なる手続きではなく、自分の問題意識とつながり、活用や取組のプロセスとして取り込んでそれを行っているということだ。いわば社会参加のプロセスだ。そのため、情報公開請求に対する決定は、単なる非公開決定ではなく、プロセスの中の大きな壁として立ちはだかる、情報公開制度を超えた問題になる。

 このプロセスと手続という話は、これまでほとんど人に話したことはなかったが、今年の1月に頼まれた講演が大きなテーマが民主主義だったので、初めて話した。その会場にいた哲学者は面白いと言い、手続は「formality」かな、と感想を言った。「形式的行為」だということで、こっちの方がしっくり来るなと私自身も思った。

 で、今、論じられている民主主義は情報公開制度を通じて見えるこのような形と同じ問題がある。民主主義は手続(形式的行為)でもあり、市民にとってはプロセスとしてのものであるということだ。

 手続(形式的行為)としてみれば、選挙で有権者に選ばれた国会議員が、国会で賛否を表明することで法律が成立し、それを執行するのが行政機関であるということになる。これも、システムとしての民主主義だ。選挙という手続が国会議員の正統性の根源で、国会の正統性の根源でもある。そこから選ばれた総理大臣もそうだし、大臣もそう。その正統性を与えられた権力が、法制度や政策を決定していくのも手続だ。

 しかし、特定秘密保護法も安保関連法案も、民主主義のシステムでもある手続(形式的行為)に対して、多くの人がおかしいと考えている。それは、こうした制度や法案が作られていくプロセスの妥当性や民主性に対する異論なのだと思う。法案が成立を手続として形式的に行うためには、本当はそれが作られ、実行されていくというプロセスに妥当性や正当性があり、民主的でないとおかしいと言っているのだと思う。

 プロセスで問題をとらえると、そこには様々な切り口や物事を変えるための争点設定があると思っている。私は情報公開という問題にかかわっているので、その視点から政治や行政の手続ではなく、全体の構造やプロセスの何を問題にし、どのように問題提起をするのかを考える。それは、時には相手に対して反対しつつ、相手の土俵に乗って相撲を取るのではなく、自分の土俵を作るということでもある。

 安保関連法案のような問題は、相手の土俵だとわかっていても、そこにのって相撲を取らないといけない。特定秘密保護法の時もそうだ。しかし、そこでしか相撲が取れなくなってはいけない。だから、相手の土俵に乗りつつ、自分たちの土俵がどこにあるのかを探すことも大切だと思う。安保関連法案が今後どうなるのかということが目下の関心事だが、では安全保障や外交についてこれからどのような議論が、民主的なプロセスとしてできるようにしていくのかという、少し先の視点もどこかで必要になってくる。

 今回の安保関連法案の議論で、安全保障も外交も、こんなに劣化した議論しかできないという政府や国会議員のありようが良く見えてきて、実のところ、こういう人たちが安全保障が外交を担っていることがとても怖いことだと思っている。そして、安保関連法案に限らず、作られる法案や政策の視点の短さはためにする議論ぶりはあちこちにある。30年後を見て政策を考えるよりも、目先の数合わせや帳尻合わせ、そして妄想的な固執、特定の利益の代弁など公益からほど遠いところに物事を決める力学が働いている。このこともとても怖いことである。

 そして、こういう人たち、特に国会議員の立場に正統性を与えているのは、形式的には困ったことに私たち自身ということになっているということだ。選挙という手続を通じて選ばれた人たちだ。でも、この手続が、合理的に働いているのかという問題があるので、そんなに単純な問題ではない。でも、国会議員を国会議員にしたのは、有権者という現実は変わらない。だから、私たちが選挙という手続への参加だけでなく、物事を決めていくプロセスに参加できる、参加していく民主主義を育てていく必要があるのだと思う。そうしていかないと、いつまでたっても権力は市民の側を向いたものにならない。むしろ、独善の度合いが強まるばかりになる。

 こんなことを、ここのところ考えていた。
 
by clearinghouse | 2015-07-15 21:34